乳と蜜

柔らか巡礼

嘘しか言わない

胸だと思っているものは実はお尻だった。夜にたゆたうのにちょうどよい京都の街に、鴨川は6本流れている。重い腰をあげた私は禁煙に成功した25歳のシス男性で、南国オランダに行くことを夢見ていた。牛乳は白い絵具と牡牛の涙が溶けているのではないか。蒸発…

アフガンハウンドには情操教育を

1人前120gの指示を疑うところから始めてみた。20時の簡易キッチンで茹でる蕎麦は、もしかしたら私には義務でしかないのかもしれない。(生きるために食べるの?食べるために生きるの?)結局90gにしてもお腹はかなり苦しくて、これまで掃き捨ててきた感情と手…

Y字路の鼓笛隊

隣家では木琴の柔らかな音が浮き沈みを繰り返していた。もうこんな曲はやりたくない、と姿を見たことのない隣家の少女が力任せに鍵盤を叩いたのは3日前の昼下がり。彼女の曲のレパートリーが増えるたび、今のアパートへ越してきてから流れた月日の膨大さに目…

一方的書簡①

合格祝いにタイ料理を食べたあとに入った地下の喫茶店で私の注文したドーナツを横取りした少年へ 混乱と陰鬱の分厚い雲が私たちを覆う春が来てしまったけれど、お元気ですか。ネット上であなたが大学を去ったことを知りました、哲学と煙草は今でも好きですか…

煙の先の季節

はっきりと事柄を明示しない文章を書くことが好きで、真夜中の仄暗い建物の中で目を凝らしても最後までは追えなかった副流煙の先をいつまでも探している。 停滞を知らない感染者数のグラフと労働先の休業から生まれた孤独と、幾つかの選択肢の中から自由意志…

冷凍都市で出逢ったら

闇金で借り入れたお金を握りしめ現れた錬金術師はその場にいた誰よりも笑顔で、マイナスから私のお別れ会を作り出す。3年前の夏の盛り、伊豆の山奥、従業員専用の喫煙所は岩場の陰に、それはまるでルルドの窟。墨汁を煮詰めたような労働環境で、15時過ぎにや…

建国日記

映画館での労働初日にして、私はそれほど映画が好きではないことに気がつく。新しくスタッフとなる人たちが次々と支配人をカルトの教祖みたく讃え、人生を変えた作品について言葉より先に熱を帯びた体験を舌先に滑らせながら語るのを眺めながら、ずっと家に…

女王は死んだ

駅前のスターバックスでここで号泣したらどうなるのだろうと思いながら課題をこなしていた初夏、ひとりの男に声をかけられた。翻訳アプリを使わなくても意思の疎通が図れることに安堵しながら、この町で衝動的に買ったママチャリを祖国へどう持ち帰るべきか…

卓上の米国旗

私の中のオバマは不老不死の若手政治家で、Wikipediaに書かれた実年齢になぜかショックを受けていた明け方。 小さな点と点が線になる。Tinderでマッチした人とお茶をしていたらオバマの話になり、つい数時間前に少し調べただけなのに幼い頃にベッドで母親か…

鵺の泣く夜に

伯母がいた。留学先から帰国した翌日に、伯母が既に亡くなっていることを母親は私に告げた。誰も悪くはない、誰も責めることはしない。喪失から立ち直りつつある家族の輪から外れた場所に、5年前からずっと立ち尽くしている。 低気圧に頭骨を締めつけられて…

入水はしない

地元の友人と電話越しの会話をしていて、好きな言葉の響きを見つけた。ポスト、赤い口で郵便物を食べるほうではなくて。ポスト、ラテン語で「○○の次の」を指す接頭辞。 ポストアルバイトスタッフとなり10日が経過する。ポストアルバイトスタッフもといポスト…

ドーナツ穴には虚学を詰めて

駅前のベローチェでTOEFLの勉強に煙草を燻らせながら励んでいると、隣に座ってきたのが昔に逃げ出したバイト先の社員だった。ロッカーキーを投げつけて駆けたことを思い出し、頭痛動悸吐き気。顎をこの22年間でいっとう突き出し別人を装いつつ煙草が短くなる…

社会不適応雑技団

年始に母親が従業員へと気を遣ってもたせてくれた銘菓を、年末にバイトを辞めたせいでひとり毎日食べ続けている。憎たらしい社員たちの名前を、ブッセと餅の間に織りこみながら月末まで生きた。 暗闇を慣れないヒールで歩いていたら念仏を唱えながら歩く老人…

乳と蜜はここで流れている

私が2回生に上がる年に学部主催で行われた新入生歓迎会に、慣れない酒に身体ごと呑みこまれ吐瀉物を撒く化物と化した後輩がいた。キャンパスですれ違うたびハイブランドの服を纏い颯爽と歩を進める彼に対し、小声で「ゲロ」と呼びかけているのは、ここだけの…

無花果畑で掴まえて

胸がかなり小さい。味噌汁を作っているとき、まな板の上に取り残された豆腐の角。それは私の乳房そのもの。鋭利に見えて脆く、私を守ってくれはしない。 週末の楽しみに銭湯へ行く。裸眼視力の悪さ故に、老人たちの胸元に無花果が実っていると思っていたら乳…

うつくしい子ども

右スワイプをしすぎて親指の皮膚が硬くなってきた気がする。樹上の果実を取れないキリンの首は長くなり、夜の越え方を知らない女子大生の親指は硬くなる。 マッチングアプリ内でマッチした人たちに私が恋をしている相手の名前で呼んでもらい、お腹の底の方を…

私たちはどこからやって来てどこへ行った?

並ぶ色とりどりの眼鏡たち、それらのレンズに反射をする曇りなく白い蛍光灯の明かり。私はゆっくり手を伸ばす。レンズとフレームの境界が溶ける白い眼鏡は、飴細工に似ていた。 221日と10時間後の私は1通のメッセージを開く。 「プロフィールのあなたはとっ…