乳と蜜

柔らか巡礼

一方的書簡①

 合格祝いにタイ料理を食べたあとに入った地下の喫茶店で私の注文したドーナツを横取りした少年へ

 

 混乱と陰鬱の分厚い雲が私たちを覆う春が来てしまったけれど、お元気ですか。ネット上であなたが大学を去ったことを知りました、哲学と煙草は今でも好きですか。いつか3人で会いましょうと話していた彼女は、今は故郷で書店員をしているそうです。曖昧な表現をしたのは、連絡を取らなくなって今月で1年が経ったから。彼女が自ら死ぬことを選んだ気がして、私にはどうしても連絡をする勇気が湧きません。私の中の彼女は駅前の大きな書店で、大好きな語学書たちを棚に並べています。

 

「そのときなら生死を隔てる敷居をまたぐのは、生卵をひとつ呑むより簡単なことだったのに」

 

 『色彩をもたない多崎つくる』を最初に読んだとき、私はこの言葉のリズムが気に入って、何度も舌先でころころと転がしていました。あなたの前でも少し得意げに誦じてみせた気がします。今の私は最後の方でつかえてしまいます、一息にはもう言えません。

 

 今日で禁煙を始めて2週間です。ヤニの匂いの染みついた、赤いビロードのソファに深く身を任せて煙草を燻らせたくて堪りません。部屋の隅に転がっていたマッチには、あなたと行った地下の喫茶店の名前がありました。

 

 今までもこれからも、あなたの進む先に光が溢れますように。

 

 追伸:どうしてあのとき私のドーナツを黙って食べたのですか。