乳と蜜

柔らか巡礼

乳と蜜はここで流れている

 私が2回生に上がる年に学部主催で行われた新入生歓迎会に、慣れない酒に身体ごと呑みこまれ吐瀉物を撒く化物と化した後輩がいた。キャンパスですれ違うたびハイブランドの服を纏い颯爽と歩を進める彼に対し、小声で「ゲロ」と呼びかけているのは、ここだけの話にしておく。

 

 大学で神学を専攻し、もうすぐ3年が経とうとしている。留学帰りの斜に構えた思考で、人とは違う何者かになりたかった私にとって、日本ではマイナーとされる学問分野はかなり魅力的だった。クィアでラディカルな上に神学の学位を持つ人が雨のそぼ降る寂れた商店街を彷徨っていたら?私は家中のタオルを掴んで助けにゆくだろう。そしてあわよくば、友人になりたい。そんな風にして、神学が持つ未知の領域に盲目的に惹かれてしまったのが19歳のとき。

 

 時は移り変わり、ここに22歳の私がいる。乳首を隠す長さまで髪を伸ばすと決め、特定の主義主張を持つわけではないが黒い服しか身につけなくなった私だ。片手には新共同訳聖書を携え、つい数分前に「フェミニズム神学の課題と展望」に関するレポートを書き上げた。とても"神学部生らしい"姿をした、勤勉な神学部生。

 

 「アメリカの大手食品企業が養鶏場の鶏たちをどんな環境で飼育させているか知っている?過剰に餌を与えられた彼らは、自らの脚で立つこともままならないの」

 

 フェミニズム神学を学ぶ意義を見出す以前の私は、人文地理学に傾倒した早口のオタク。神学部に入学した途端、クルアーンに対する興味もアラビア語学習への意欲もメガチャーチとLGBTQコミュニティの相関への関心も、全てが夏の夜の夢みたいに朧げなものへと変容した。自らが所属する学部で何者にもなれず、荒野を40年間にわたり流浪したイスラエルの民のように他学部の講義を履修し続ける3年間。気がつけばグローバルの名を冠する学部の講義で、サバティカル帰りの実践的な教授から人文地理学の手解きを受けていた。そこに至るまでの過程で、女性として当たり前のように晒されてきた理不尽な抑圧にようやく気づく機会も多々あり、このまま何となく社会学で大学院へ進めばいいかとぽやぽやと過ごすクラゲのような日々。

 

 私の内で起こった激しく美しい革命を端的に記すと、ようやく神学の学問領域内において、心から追究したいと思えることに出会えた。レビ記に記された女性の浄不浄に対する穢れの規定。聖書を父権制の蔓延る現代日本をサバイブしているフェミニスト視点で解釈をしてゆく試み、何て心が躍るのだろう。

 

 幸いにもう1年、私には知識を深めてゆける時間が残されている。私に与えられた営みを、人生は巡礼だと思いながらここまで生きていた。前に進んでゆく理由を、砂金取りみたく途方もない時間の中から見出せた私を私は誇りに思う。

 

 避けてきたヘブライ語と聖書ギリシア語と格闘する春を前にした私へ、千の賛美と祈りを。