乳と蜜

柔らか巡礼

女王は死んだ

 駅前のスターバックスでここで号泣したらどうなるのだろうと思いながら課題をこなしていた初夏、ひとりの男に声をかけられた。翻訳アプリを使わなくても意思の疎通が図れることに安堵しながら、この町で衝動的に買ったママチャリを祖国へどう持ち帰るべきかを相談してきたその人は、魚のタトゥーを腕に刺れていた。お互いが禁煙に4回失敗していること、私が敬愛するモリッシーを彼は飼い猫の名前にしていたこと、1日に吸う煙草の本数よりも多い共通点に惹かれて毎日のように喫茶店で言葉を巡らせた。

 

「一緒にハプニングバーへ行かないか」

 

 魚のタトゥーの彼が、私のゴッデスともいえるフェミニストを中傷する記事を書いていたと知った日。その彼女との論争を面白そうに話す彼は、狭く澱んだ鉢の中を泳ぎ回る金魚みたいだった。テーブル越しに向い合う、奇妙な突起がぼこぼこと浮き出た赤色の魚は、もう何を語りかけてもパクパクと口を歪ませるのみ。それ以降、彼の話す言葉を私が理解することはなかった。

 

 盛夏に蝉と共に飛び去った機会を手繰り寄せ、魚の男と行くはずだったハプニングバーを検索する。どこもぬらぬらとした赤い照明の内装で、何となしに水槽を連想させた。

 

 時刻は17時15分、私は指定された共同オフィスの前に立ち尽くす。1日で辞めたアルバイトの制服を可燃ゴミの袋に詰めながら、動かした親指の先にはオープニングスタッフ募集の案内。支配人とマネージャーが見つめる先に座る私は、ノーブラで何故か1世紀パレスティナにおける父権制社会と女神信仰について話している。神学部という肩書きが気に入ったらしい彼らは、無邪気に専攻について尋ねてくる。志望動機は語らずに面接は終わった。

 

 ハプニングじゃん、ハプニングじゃん。赤い部屋でぬらぬらとセックスをするよりも、こんなのよっぽどハプニングじゃん。ハプニングじゃん、ハプニングじゃん。ノーブラでここで失禁したいなって思いながら専攻について語るなんて、こんなのよっぽどハプニングじゃん。

 

 新しいバイトには採用された、自転車を漕ぎ出す人のペダルが思いっきり取れたのを見ていた。

卓上の米国旗

 私の中のオバマは不老不死の若手政治家で、Wikipediaに書かれた実年齢になぜかショックを受けていた明け方。

 

 小さな点と点が線になる。Tinderでマッチした人とお茶をしていたらオバマの話になり、つい数時間前に少し調べただけなのに幼い頃にベッドで母親から幾度となく聞かされてましたよという顔で彼の政策について話してしまった。気のおける友人以外と久方ぶりに言葉を交わすせいで、熱心なオバマ政権支持者と化した私がそこにいた。マッチした相手の話は街ひとつ破壊できるほどにつまらなくて、彼が話している間に隣の席の話題をカウントしてゆく。東出昌大の不倫問題からコロナウィルスへと放たれたラリーは、3往復目を迎えていた。

 

 やはり夢見がちなレズビアンは黙って自らにシルバーリングと香水を買い与えた方が健康によい、WHOの定義は知らない。

鵺の泣く夜に

 伯母がいた。留学先から帰国した翌日に、伯母が既に亡くなっていることを母親は私に告げた。誰も悪くはない、誰も責めることはしない。喪失から立ち直りつつある家族の輪から外れた場所に、5年前からずっと立ち尽くしている。

 

 低気圧に頭骨を締めつけられて眠れない。だからそのままの状態を文字にして友人へと送信する。春めく湿地帯みたくぽこぽこと生まれてゆくメッセージは浮き沈みを繰り返し、画面は色づきを増した。

 

 伯母の世界は8畳。生家以外の場所で彼女に会うときは、決まって市民病院の消毒液が目に染みるベッドの上。彼女が自身の曲がった背骨と極端に痩せ細った手足を、どう感じていたのかは知らない。心臓が悪かったこと以外、何が彼女を苦しめていたのか私は知らない。

 

 こっそりと覗いた携帯に弟妹の連絡先しか登録されていないのを見たとき、12歳の私にもそれが何を意味するのか理解できた。中学生の頃の友人は疎遠になり、今は千葉にいるのだといつかに話していた彼女の横顔が思い出せない。

 

 伯母の葬式に友人だった人は来たのか。そもそも伯母が亡くなったことを彼女は知っているのか。伯母はあの柱時計の音が厭に響く家で48年間何を考えていたのか。

 

 答えはどこかにあるのかもしれない、けれど誰にも尋ねてこなかった思いは夜になると正体のわからない悲しみと不安に姿を変える。暗闇で泣いている鵺は私だった。

入水はしない

 地元の友人と電話越しの会話をしていて、好きな言葉の響きを見つけた。ポスト、赤い口で郵便物を食べるほうではなくて。ポスト、ラテン語で「○○の次の」を指す接頭辞。

 

 ポストアルバイトスタッフとなり10日が経過する。ポストアルバイトスタッフもといポストゆとり世代もといポスト高校生もといポスト大学2回生もといポスト令和に辞めたバイト数5もといポスト21歳の朝は早い。ポストアルバイトスタッフもといポストゆとり世代もといポスト高校生もといポスト大学2回生もといポスト令和に辞めたバイト数5もといポスト21歳はお金はないが、肥大した自信と時間だけは十二分にあった。ポストアルバイトスタッフもといポストゆとり世代もといポスト高校生もといポスト大学2回生もといポスト令和に辞めたバイト数5もといポスト21歳は午後になるともそもそと身支度を整え、ベローチェへと向かう。ポストアルバイトスタッフもといポストゆとり世代もといポスト高校生もといポスト大学2回生もといポスト令和に辞めたバイト数5もといポスト21歳は210円のブレンドコーヒー1杯で、頭に2500語のTOEFL頻出用語を詰め込んでゆく。ポストアルバイトスタッフもといポストゆとり世代もといポスト高校生もといポスト大学2回生もといポスト令和に辞めたバイト数5もといポスト21歳はそんなに不幸ではない。

 

 締め切りが明日の映画館のバイトへ履歴書を送る。証明写真の機械から出てきた私は青白い顔をしていて、夜中にすれ違いたくないタイプの人間。家の近所に玉川上水がなくてよかった。

ドーナツ穴には虚学を詰めて

 駅前のベローチェTOEFLの勉強に煙草を燻らせながら励んでいると、隣に座ってきたのが昔に逃げ出したバイト先の社員だった。ロッカーキーを投げつけて駆けたことを思い出し、頭痛動悸吐き気。顎をこの22年間でいっとう突き出し別人を装いつつ煙草が短くなるのを待つ、頭痛動悸吐き気。銀魂から得た知識を実践できたことに感動し啜るコーヒーはいつもより冷たく濃くて、頭痛動悸吐き気。

 

 渡英を控えた友人と"エシカル"で"サスティナビリティ"に溢れたカフェで、地産地消にこだわったドーナツ片手に午後を過ごす。対面型のキッチンで作業をしているスタッフから降り注ぐ優しい眼差しを浴び、彼との主な議題は「いかに林遣都が美しいか」の一点のみ。お互いの性生活を懺悔してみたり、日本のフェミニズムの矛盾を問うてみたり、こじらせたクィアでナードな少年少女だったのも今は昔。ゲートボールに興じる好好爺よろしく、林遣都が私たちにもたらした安寧を報告しあう。お互いが外つ国で修士論文を執筆している頃に、彼が大河ドラマの主演に抜擢されてしまうのではないかと仄暗い焦燥を感じて泣きそうに。林遣都が彼の道を邁進してゆくのならば、私たちもそれぞれの分野を極めましょうと固く誓い別れる。

 

 林遣都出エジプトを題材とした映画に出演しないかしらと頭の隅で夢を膨らませ、1世紀パレスティナにおける父権制に関する論文を読んで眠りについた。猫たちの交尾する声が聞こえている外は初雪。

社会不適応雑技団

 年始に母親が従業員へと気を遣ってもたせてくれた銘菓を、年末にバイトを辞めたせいでひとり毎日食べ続けている。憎たらしい社員たちの名前を、ブッセと餅の間に織りこみながら月末まで生きた。

 

 暗闇を慣れないヒールで歩いていたら念仏を唱えながら歩く老人にぎょっとされた。わざと声をあげて驚いてみた、やるせない。夜の帳の内側から出られずにもがくのは陽光も人も同じで、冬の明け方を嫌々に新しいバイトへ向かう。

 

 今日から勤務だと現場の誰も知らされておらず、私は朝食会場へ突如タイムワープした人になる。名前も素情も知らないがバッシングは妙に早い人として、ひたすらにお客が帰ったあとのテーブルを片付けた。

 

 春の私は、夏の私は、どこで母親がもたせてくれた銘菓を食べているのだろう。

乳と蜜はここで流れている

 私が2回生に上がる年に学部主催で行われた新入生歓迎会に、慣れない酒に身体ごと呑みこまれ吐瀉物を撒く化物と化した後輩がいた。キャンパスですれ違うたびハイブランドの服を纏い颯爽と歩を進める彼に対し、小声で「ゲロ」と呼びかけているのは、ここだけの話にしておく。

 

 大学で神学を専攻し、もうすぐ3年が経とうとしている。留学帰りの斜に構えた思考で、人とは違う何者かになりたかった私にとって、日本ではマイナーとされる学問分野はかなり魅力的だった。クィアでラディカルな上に神学の学位を持つ人が雨のそぼ降る寂れた商店街を彷徨っていたら?私は家中のタオルを掴んで助けにゆくだろう。そしてあわよくば、友人になりたい。そんな風にして、神学が持つ未知の領域に盲目的に惹かれてしまったのが19歳のとき。

 

 時は移り変わり、ここに22歳の私がいる。乳首を隠す長さまで髪を伸ばすと決め、特定の主義主張を持つわけではないが黒い服しか身につけなくなった私だ。片手には新共同訳聖書を携え、つい数分前に「フェミニズム神学の課題と展望」に関するレポートを書き上げた。とても"神学部生らしい"姿をした、勤勉な神学部生。

 

 「アメリカの大手食品企業が養鶏場の鶏たちをどんな環境で飼育させているか知っている?過剰に餌を与えられた彼らは、自らの脚で立つこともままならないの」

 

 フェミニズム神学を学ぶ意義を見出す以前の私は、人文地理学に傾倒した早口のオタク。神学部に入学した途端、クルアーンに対する興味もアラビア語学習への意欲もメガチャーチとLGBTQコミュニティの相関への関心も、全てが夏の夜の夢みたいに朧げなものへと変容した。自らが所属する学部で何者にもなれず、荒野を40年間にわたり流浪したイスラエルの民のように他学部の講義を履修し続ける3年間。気がつけばグローバルの名を冠する学部の講義で、サバティカル帰りの実践的な教授から人文地理学の手解きを受けていた。そこに至るまでの過程で、女性として当たり前のように晒されてきた理不尽な抑圧にようやく気づく機会も多々あり、このまま何となく社会学で大学院へ進めばいいかとぽやぽやと過ごすクラゲのような日々。

 

 私の内で起こった激しく美しい革命を端的に記すと、ようやく神学の学問領域内において、心から追究したいと思えることに出会えた。レビ記に記された女性の浄不浄に対する穢れの規定。聖書を父権制の蔓延る現代日本をサバイブしているフェミニスト視点で解釈をしてゆく試み、何て心が躍るのだろう。

 

 幸いにもう1年、私には知識を深めてゆける時間が残されている。私に与えられた営みを、人生は巡礼だと思いながらここまで生きていた。前に進んでゆく理由を、砂金取りみたく途方もない時間の中から見出せた私を私は誇りに思う。

 

 避けてきたヘブライ語と聖書ギリシア語と格闘する春を前にした私へ、千の賛美と祈りを。