乳と蜜

柔らか巡礼

無花果畑で掴まえて

 胸がかなり小さい。味噌汁を作っているとき、まな板の上に取り残された豆腐の角。それは私の乳房そのもの。鋭利に見えて脆く、私を守ってくれはしない。

 

 週末の楽しみに銭湯へ行く。裸眼視力の悪さ故に、老人たちの胸元に無花果が実っていると思っていたら乳房だった。昔に付き合っていた彼女の胸がかなり大きく、枕を交わす最中に圧死するのではないかと慄いていたことを思い出して物悲しくなり、早々に引き上げる。背後の無花果畑は最盛期を迎えていた。

 

 早朝からアルバイトの面接へ、近所のホテルへと駆ける。ノーブラで行けば緊張しないかもと、普段は銃後にいる豆腐の角を最前線に送り出し、いざ出陣。カジュアルな採用面接を想像していると、総支配人を筆頭に総務課のトップまで揃う物々しい雰囲気。ホテルのトップ自らが質問をしてきても、目の前に座る私はノーブラ。あまりに滑稽で、何も用意してこなかったことが嘘のように快活に口から溢れ出してゆく志望動機とこれまでの職歴に学歴と特技。

 

 「大学生の割に君は立派だね」

 

  「恐縮です(ノーブラ)」

 

 「就職活動はしないの?」

 

 「大学院進学を予定しておりまして(ノーブラ)」

 

 「明後日から来てもらえるかな?」

 

 「ありがとうございます(ノーブラ)」

 

 豆腐の角の初陣は、即日採用という華々しいものとなった。胸を突き抜けてゆく開放感がノーブラから来るものなのか、労働先が決まったことに由来しているのか、私は知らない。

うつくしい子ども

 右スワイプをしすぎて親指の皮膚が硬くなってきた気がする。樹上の果実を取れないキリンの首は長くなり、夜の越え方を知らない女子大生の親指は硬くなる。

 

 マッチングアプリ内でマッチした人たちに私が恋をしている相手の名前で呼んでもらい、お腹の底の方をムズムズとさせていた明け方。素敵な名前だと四方から光が降り注ぐ度に、誇らしさと寂しさが沸き立った。あなたの名前をつけた人はとてもセンスがいい。

 

 2年前に牛小屋での濡れ場がハードすぎる映画を一緒に観に行った友人と、久方ぶりに飲みに行く。あの頃の私たちは世間知らずのゲイとレズビアンで、綿飴みたいに甘いだけのべとつく妄想の中で暮らしていた。ギネスビールの泡を口元につけながら、先月デートした相手の話を楽しそうにしてくれる彼が可愛らしかった。

 

 ハライチの岩井によく似た、読書家のホストがお薦めしてくれた本を読んで眠る。

私たちはどこからやって来てどこへ行った?

 並ぶ色とりどりの眼鏡たち、それらのレンズに反射をする曇りなく白い蛍光灯の明かり。私はゆっくり手を伸ばす。レンズとフレームの境界が溶ける白い眼鏡は、飴細工に似ていた。

 

 221日と10時間後の私は1通のメッセージを開く。

 

 「プロフィールのあなたはとっても知的ですね」

 

 独りで越えるにはあまりに長すぎる夜を、もう何度繰り返してきたのかを指で折るのに疲れた真昼間に、マッチングアプリをインストールした。左スワイプはイマイチ、右に振りかぶればイイかも。そこでは人の数十年の営みが、親指の戯れで否定され続けてゆく。

 

 掛けていた眼鏡から知的だと評された私は、何時間でもフェミニズムと神学の話はできても、好きな人にスマートに声を掛ける方法を知らない。掛けていた眼鏡から知的だと評された私は、何十とあるSNSのパスワードはメモしていなくても、実家の住所を空んじられない。掛けていた眼鏡から知的だと評された私は、ミルフィーユカツは作れても、玉ねぎのみじん切りはできない。

 

 眼鏡は映画字幕を追う時に眉間に寄るシワを取り去るけれど、私に知性を与えはしない。小さな画面越しにこちらを覗く彼らが、22年間の生で私が得た知性に辿り着く前に消えてゆく。

 

 「メッセージありがとう。あなたが小さい頃の話をして。無力を感じたのはいつ?心から笑ったギャグ漫画は?北アイルランド問題について何を思う?」

 

 新着メッセージを知らせる通知音はまだ鳴らない。